パーソナリティー障害

「ミュージシャンを叩く前に、日頃からどれほどのことをなさっているのでしょうか? それぞれの人が、それぞれの場所で、やれることをするしかないと僕は考えています。ただ、自分と同じ考えを持つ音楽家を祭り上げ、意に反せば叩き落とす。そういうことに対して、違和感を持つだけです。ミュージシャンへの期待も失望も、大き過ぎると僕は感じます。」


これはASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文さんがfacebook上でミュージシャンの過失を槍玉に挙げることに対して語った言葉の大意です。


彼の意図とは少しずれるかもしれませんが、「自分と同じ考えを持つ音楽家を祭り上げ、意に反せば叩き落とす」という心理について一昔前に精神科で流行ったパーソナリティー障害と似ているなと感じました。境界例、境界性人格障害と移り変わり、現在ではパーソナリティー障害と診断されるなかには躁うつ病や自閉症スペクトラム等、別の病気や素因が混じっていることもあって、それは重ね着症候群なんて呼ばれたりします。

ですが、ここでは純粋なパーソナリティー障害のみについて書きます。思春期心性と重なる部分が多く、何らかの理由で成熟した大人のパーソナリティーを獲得できていない、それゆえに社会生活に支障をきたす状態を指します。 その対応について医療現場で、ひいては一般的にも参考になるような資料をまとめています。


以下のの内容は成田善弘先生の著書に拠る所が大きいです。ただし私の理解の範囲で書いていますので意味の伝わりにくい部分もあるかもしれません。


 「子どもの頃、いつも不安でした。母親が買い物にでかけると、もう帰ってこないんじゃないかって。母が『ただいま』といって帰ってきても、『本当のお母さん?』と何度も確かめました。何か別の恐ろしいものが母の仮面をかぶって私を殺しに来たんじゃないかと思って。」 ―  パーソナリティー障害と診断された、架空の女性症例です。これは幼児期の回想ですが、同時に彼女は現在の母親に対しても同様の気持ちを持っています。こういう話をする時は今その話を聞いてくれている、まさにその相手の態度がガラっと裏返しになりはしないかと心配しています(実際に裏返しになるのは彼女の態度なのですが)。


 彼女の人生には悲惨な出来事が次々起こっています。例えば肉親との死別、親友の裏切り、無理解な社会からの迫害など、人間の宿命がギリシャ悲劇のように見えてくる。何とかしてやりたい気持ちがわいてきます。彼女の心の底にある哀しさ、寂しさ、虚しさなどが、非常によくわかるような気になってきます。

 だから彼女の気持ちに沿ってあらゆることを代行してしまう。でも、それは本来、彼女自身が決断し実行しなければならないことです。例えば代わって学校の先生に電話をかけてやるとか、彼女が「お母さんと話しにくい」といえばすぐお母さんを呼んで相談してやるとか、そんなことをしていると、どこまでが彼女の気持ちで、どこからがあなたの先取りかわからなくなってしまう。彼女の気持ちと自分の気持ちが区別できなくなって、互いに相手の中に自分を見ている関係になります(これを投影性同一視といいます)。その関係の原型はかつて「彼女とその母親の間」に起きています。

 そして彼女はどんどん退行します。すぐ要求に応じてくれるのが当然と思うようになる。水道の蛇口をひねれば水が出るように、あなたはいつでもすぐ駆けつけないといけない。そんな理不尽な要求は当然叶え続けることはできません。あなたが要求に応じることができなくなると、彼女は突然がらりと人が変わったように激しい敵意や攻撃性を示します。つまりあなたは、初めは彼女を助けてあげる存在だったのですが、いつのまにか彼女の手足のごとく奴隷のごとく扱われ、それが叶えられないと巨大な圧政者だとか迫害者にされてしまう。 「自分を助けてくれるひとをを祭り上げ、意に反せば叩き落とす」のです。 




  「助けてあげたかったのに、こんなはずじゃなかった」。そこで怒ってやめにできればいいのですが、誠実な人ほど、彼女の出す無理難題に一生懸命耐えることになります。「彼女が重荷で放り出したい」。一方で「そんなことを考えてはいけない」と葛藤に陥ります。パーソナリティ障害を持つひとは他者の陰性感情(疎んじる気分)にとても敏感です。「私のことを重荷と思ってるんでしょう」とか「嫌ってるんでしょう」と責めます。内心そのとおりだからあなたは動揺します。そういうとき、あなたは彼女に対して「そう思う根拠は何なの」と不思議に思い、聞くべきなんです。あなたに後ろめたいことがなければ、彼女の挙げるその根拠は非常に挙げにくいか、歪曲されたものになります。ところが実際はあなたも内心ちょっと怒っていたりするから、そこは意外と彼女の言うとおりだったり。

 しかも、ここがポイントなんですが、責めるときに彼女は大変しばしば相手の言葉をそれまでの文脈抜きで引用します。例えば「私に会いたくないと言ったじゃないの」というふうに彼女が言ってきたとします。そのときのことを思い出すと、まず彼女が「あなたは頼りない」とか「役立たずが」とかさんざん言うから、つい「それなら会わなければいいじゃないか」と売り言葉に買い言葉。後から「私に会いたくないと言った」というところだけ抜き出してくる。 文脈抜きで引用し都合よく解釈する。「たしかにそう言ったかもしれないが、そんな意図ではないんだ」と言いたくなります。するとさらに挙げ足をとられて話が泥沼にはまります。

 こういうとき彼女は「見捨てられ感」を抱いています。過去の色々な見捨てられ体験が、現在の心境に融合して再体験されている。友人や恋人から見捨てられたとか、学校の先生や、母親からも見捨てられたとか、そういう過去の見捨てられ体験が融合して、それぞれ区別して取り出すことができない。それを「体験の融合性の過剰」といいます。

 過去の見捨てられ体験を一つ一つちゃんと検討すると、別れの体験は必ずしも見捨てられるばかりじゃない、卒業するとか、出発するとか、成長、あるいは自立するとか、そういう文脈も含んでいた可能性はあるんですが、そういったものはどこかへ行ってしまう。 

 彼女にも、例えば自分が深く愛していた、あるいは依存していた人から離れていくことに対する後ろめたさとか、あるいは自分を抱えきれなくなった相手に対する軽蔑の気持ちとか色々あったに違いないんですが、それらはほとんど意識にのぼらない。ただ「今、目の前の相手から見捨てられる」ということに共鳴する側面だけが過剰に意識化されてくる。

  つまり過去の体験の全体性が損なわれる。別れが持っていた見捨てられるという側面のみ強調される。自立とか成長のきっかけという側面や、自分のほうにもいろんな感情があって相手に悪いことをしたかもしれないという側面は損なわれ、「自分が見捨てられた」という体験が「今この相手から見捨てられる」という側面に共鳴して思い出されるのです。ですからそのとき私たちは彼女の人生すべての恨みを引き受けることになります。

  そこでお互い怒ってしまって終わりになることもあります。しかしあなたが誠実であればあるほど、彼女が非難することに一片の真実があることを認めざるをえないわけです。確かにこういった人々に会っていると、怒りがわいてきたり、いなくなれと思うこともあります。そういった生の感情は「彼女を助けることができない」という無力感につながっています。この無力感こそ彼女がこれまでの人生で何度も抜け出そうとしてなお抜け出せず苛まれ続けている感情なんです。私たちはそこでその無力感をよく見つめて、それを自分の内界に保持しながらその由来を探らなくちゃいけない。

 しかし若ければ、あせる気持ちが強い。そのうえ周囲に理解者がいないとますますあせってしまい、一生懸命になればなるほど泥沼になっていきます。ついに、いかに誠実で良心的で熱心なひとでも怒り出してしまう。「悪いのはお前だ、お前はみんなに見捨てられて当然だ」と。こうして恐ろしい怖いひとにがらりと変わってしまう。「良い仮面の下の恐ろしい素顔」があらわになる、というふうに。本当は彼女ががらりと変わって裏返しになっているんですが、当人は自分が裏返しになっていることは分からず、相手ががらっと裏返しになることをすごく恐れています。かくして自分でその不安を現実にしてしまうのです。



 以上のような事態を防ぐためにはどうしたらいいのでしょうか。精神科治療における対処の仕方として、まず「構造化」があります。構造化とは、この治療で自分は何をしたらいいか、自分には何を期待されているか、相手にはっきりわかるようなセッティングをすることです。 ただ漠然と「受容的に」「話をよく聴きましょう」といった無構造な治療はよくない。今何が問題で、具体的な治療目標は何かをはっきり言葉にして彼女と約束する必要があります。

 外来なら、まず面接時間を約束してよほどのことがなければ変更しない。苦しくなったからといって急に来たからといって毎度じっくり話を聴くというのは退行を促します。彼女の自我を支えるためには「約束の時間が終わったら帰りなさい」、「夜遅くはダメ。次の外来まで我慢しなさい」というアプローチが必要です。面接の内側と外側、心の内と外、わたしとあなた、過去のできごとと現在起こっていること、そういった境界をはっきりさせるよう心がける。

 そしてまず彼女自身に治ろうとする意志があるかどうか確認します。治療に際して「人格の再編成」ではなく、治療の対象となる症状を考えたほうがいい。例えば「憂うつである」とか「カッときてすぐ物を投げる」とか具体的な症状をとりあげて、それを治すためにどうしていくのか、相談し約束します。面接の頻度や時間から、「自殺してはいけない」「薬をたくさん飲んではいけない」といったことまではっきり言葉で言います。約束は守られないことが多いのですが、まず初めに制止しておくことが重要です。そういう設定をした上で治療を受けるかどうかは彼女自身に選択してもらいます。治療を受けるということはその設定を守ってもらうことが前提であると明確化しておかないといけない。それからいろいろ要求してきたときも、ここまでは引き受けるけど、ここから先は引き受けないということを明確にしておきます。なんとなく頼りになりそうな治療者で要求すればズルズルきいてもらえるというふうでは彼女はますます混乱します。「境界、壁」といった感覚を育てる。


 外来治療が基本ですが、入院させざるを得ない場合には、そのつど2~4週間の短期間で行います。いつまでも入院していいとか、いつ退院できるかわからないというのはよくない。それから入院の目的をはっきり決める。「自殺企図があったからまず休養する」「親と距離を置く、頭を冷やして考え直そう」「入院して他の患者さんやスタッフとの人間関係を体験して、それについて話し合い、社会生活の仕切り直しをしよう」など。とにかく目的を明確にする。「自分は何をすることが期待されているか」はっきりさせます。それから相手を抱える、ホールドする。母親が赤ちゃんを抱っこして、赤ちゃんが落っこちてケガしないようにしているイメージ。守っていると同時にリミット・セッティング(限界設定)するのです。

 ホールドするのは自分ひとりではない。入院であれば他の職員、看護師、ケースワーカーもいますし、場合によっては警備員のお世話にもなる、売店のおばさんや、いろんな人がいる。外来であれば保健師もいるし、教師もいるし、家族もいる、場合によっては警官もいるし、いろんな人がいます。彼女が内界に抱えきれず行動化するのを、こういう人達全体で抱えているイメージをまず持たなくてはいけません。自分で全部抱え込んでいるわけではない、それは患者も治療者も同じなんです。こういう人達全体でチームというか、共同体となって機能するといいです。そもそも良くならない原因に、彼女を支える共同体(最小単位は家族です)がうまく機能していなかったということがあります。



 行動化についても説明します。行動化といっても、こちらが勝手に名前をつけているだけで、彼女のほうは、問題行動(自傷、暴力など)をしても別に行動化だと思っていないわけです。まず「これは行動化だと」問題に標識します。ある行動を問題だから治療的に検討しなきゃいけないと、ある行動に問題という標識を立て、その行動を多少なりとも自我異和化します。自分とは別のものだと。

 その次にその行動化の意味を考えます。行動化にはある種の適応的な側面があります。例えば空虚感を一時なりともやわらげるとか慢性的な離人感から抜け出すとか、リスト・カットは手首を切った瞬間だけ多少生き生きします。それから一層破壊的になるのを防ぐというメリットがある。例えばお母さんを殴る代わりにガラスを割るとか。特定のサブ・カルチャーの中で承認を得られるというのも大きいです。乱暴なオートバイの運転をすると暴走族内では評価されるでしょう? あるいは例えネガティヴなものであっても周囲の関心を引く。全く無関心に放っておかれるより、ガラスを割れば「どうした、おまえ」という風に親がやってくるとか、そういう「行動化のもっているプラスの側面」というか、効用をまず治療者がしっかりつかんでおく必要があります。

 ほとんどの行動化は発生的には適応的な行動であることが多い。例えばお母さんがお乳をくれないので赤ちゃんは床にひっくり返ってバタバタする。するとお母さんがすぐ飛んでくる。「床にひっくり返ってバタバタする」というのは赤ちゃんにとって極めて自然で適応的な行動です。しかし20歳すぎた人が、母親がわがままをきいてくれないから床にひっくり返ってバタバタして、ついでにガラスも割るとこれは問題行動です。しかし元々は適応的な行動です。治療者がその行動の理由を理解していることが患者に伝わらないといけない。その上でバタバタしても、もうお母さんは来ないし、かえって嫌われて自分も傷つくことを理解してもらう。要するに行動化の適応的な側面を評価した上で、しかしながら、その行動化がもたらしているマイナス面を直視してもらうように持っていくわけです。そしてちゃんと止める、まずは言葉で「そんなことはしてはダメ」とはっきり言います。「気持ちは分かるけどそんなことしても得しない、損だよ」と。

 もう一つ必要なことは、感情と行動をはっきり区別することです。精神療法の要点の一つは、まず感情に賛成し、場合によって行動に反対することです。例えばお母さんが憎らしくてぶん殴る。そんなとき彼女の気持ちを聞くと、本当に母親を殺したいような気持ちだと言います。「殺したい、そこまではなるほど、あなたの話も全然わからんわけじゃない。そういう気持ちになることもある。しかし現実に包丁を突き刺すということとは全然違う」と告げます。感情に賛成し行動に反対する。

 これは彼女の内界と外界を区別しているんです。多くの母親はそういうとき「殺したいとは、なんて恐ろしい子なの」というふうに反応しますから内界で(心の中で)殺したいと思うこともできなくなっちゃう、自分は大変恐ろしい子どもだということになってよけい混乱します。だからほとんどすべての感情には賛成し(受け止めて)、行動と感情は別だということを言った上で行動には反対する。

 入院治療では、極端にいえば、看護師には次の3つを言ってもらう。「だめ」「がまん」「だいじょうぶ」。患者が例えば夜中にきて薬をくれと言っても、もう薬はだめ、明日の朝までがまんしなさい、と言う。「ものすごく苦しくなったらどうしよう」といわれたら「あなたはちゃんと乗り越えられる、だいじょうぶ」と。「だめ」というのは限界設定ということです。「がまん」、これはいろいろな感情を心の中に入れておくという、コンテイン、内界保持ということです。そして「だいじょうぶ」と安心感を保証する。その繰り返しをへて、本人が成長していくのを見守っていきます。