Kaoru Kurimoto (栗本薫) -摂食障害、LGBTと神経症、SNSと同調圧力

ライトノベルの始祖といわれることも多いベストセラー作家、栗本薫(評論の名義は中島梓)の本を子どもの頃よく読んでいました。



(時代の圧倒的な流れに逆らうことはできない、という文脈に続いて)

だが、自分自身のほうは確実に、変わることが可能である。-それも自分の力によってだ。そのことで、時代と歴史を変えることは出来なくても、時代と歴史の変貌からの圧力に対して抵抗力を保持することは可能だろう。(中略)我々は自分自身であることによってだけ、歴史や時代や社会の強制から自由であれる(中略)。歴史にまきこまれることは避けられないが、歴史に変容させられる必然性はない。時代のなかにあっても、自分自身であり続ける自由をもつこと-ないしそのための努力をすることはできる。(中略)

我々はそのためにまず、自分の置かれている環境がどのようなもので、自分が知らず知らずにかけられている時代と社会からの圧力はどのような種類のものか、そのために自分がどのように自分でなくなっているのか、よく知らなくてはいけない。

中島梓『コミュニケーション不全症候群』P322 ちくま文庫




「永遠の子どもであること」は文学、あるいはロックの主要なテーマの一つでさえあると思う。

しかし、自分自身と仲間達の私的な共同幻想を自己の唯一の拠り所として、社会全体の共同幻想、というか人としての最低のルールを無視する、いや理解さえしていない、しようともしないとしたらどうだろう? 中島梓(ライト・ノベルの始祖の一人、栗本薫の評論執筆時のペンネーム)は91年の著書『コミュニケーション不全症候群』において、それをいみじくも「大人のずる賢さとエゴイズムを身につけた無責任な子ども」と表現している。

この本は精神医学用語の誤用が目立つが、かつて摂食障害をはじめとした様々な精神疾患を持っていた(と自称する)栗本薫は、130巻以上に及び、彼女の死後もなお書き継がれているヒロイック・ファンタジー『グイン・サーガ』において、母との葛藤から拒食症に陥った少女が自らの箱庭世界で、自らと同じ異形である豹頭の戦士グインを旅させ、数多くの大人になれない苦悩する人々と出会い、最終的に自らを放逐した惑星の主であるマザー・コンピューター(直接的に彼女の母を指すだろう)と直面する。


もう一つの長編、伝奇小説『魔界水滸伝』では、人間、先住者たる妖怪、そして古きものども(クトゥルー神)の3つ巴の戦いが描かれるが、クトゥルー神は本来H・P ・ラブクラフトが描写したような、人智を超えた存在ではない。代わりに最終巻で最大の障害として登場するのはタナトス生命体、様々な理由から、自分以外の他者の存在を認識できなくなり、大人の責任を果たさず、子どものようなエゴイズムのみ肥大させ、結果的に自らも他者もタナトス(人間の無意識にある死への志向性)へと引きずり込む存在。それは無限に近い数で襲来し、全宇宙の生命の根源であるエロスを破壊しようとする。

タナトス生命体は一体一体は弱い力しか持たないが、途方もない数の威力で、かのクトゥルー神すら消滅させてしまう。しかも驚くべきことにその死骸を調べると、はるか超未来からやってきた人類らしいとが分かる。この物語の後半で物質世界(人間の住む現世)と精神世界(先住者の棲む魔界)の表裏一体の関係が途切れ、物質世界は自らの影たる魔界を失い漂流するのだが、その行き着く先が……。 これは村上春樹『1Q84』で描かれた人々の集合無意識「リトル・ピープル」に近いかもしれないし、坂本慎太郎が最近のソロ作で歌う光景かもしれない。巨大なシステム、人間性を隔てる途方もない壁に打ち砕かれ、自分固有の意思をもたないゴーストとなってしまった大衆。



摂食障害について語ろう。

栗本薫の作品世界は彼女の三大シリーズ(グイン・サーガ、魔界水滸伝などの魔界サーガ、探偵伊集院大介のミステリー、あるいはLGBTや芸能界が主題となる東京サーガ)で成り立っているが、現代を舞台にした東京サーガの一つ『仮面舞踏会 伊集院大介の帰還』においては、摂食障害が謎解きの重要ポイントになる。

細かい筋は忘れたが、95年というかなり早い段階で現代のソーシャル・ネットワーク文化のなかでますます肥大する闇、つまり、誰もがアイドルになり愛されたい一方で、パソコン・ディスプレイの前で密かに友人を陥れる人々の増加を予言している。当時は単純なチャットしかできないパソコン通信だったゆえに、現代のtwitter、facebook文化と全く違和感なくシンクロする、その物語では、摂食障害で見るも無残にやせた女性と、実は太ったオタクだがチャット上では魅力的な美少女を演じる男が描かれる。その太ったオタクは殺人事件に怯えたふりをしながら、実はパソコン通信のチャット上で摂食障害の女性に「死ね」というメッセージを送り続け自殺させたのかもしれない、という推測が最後に提示される。

現代社会において我々は誰もがオタクに、そしてタナトス生命体になりうる。そして被害者たる摂食障害の女性は作者自身であり、読者である少女たちの映し鏡だ。そして重要なのは摂食障害の病態こそがタナトスに侵されたゆえ生じていることだ。

『コミュニケーション不全症候群』において、摂食障害の少女達は、美しくあれ、男の従属物たる女であれという絶対的なレース、あるいは奴隷市場にさらされ、際限ない過食と拒食を繰り返していると説明される。その世界から逃避する手段が、女ではない、暴力的な大人の男性ではない少年同士の愛を描く小説、漫画の類であると論じられる。なぜなら中島梓(栗本薫)本人がそういったプレッシャーに曝され苦しんできた当事者だから切実に分かるのだと。別にLGBTを主題とした小説だけではない、他の物語も含め、彼女の想像力(妄想)が生み出した箱庭世界こそ、親や社会の従属物ではない、彼女が彼女だけで作り出した鎧、いや、かたつむりの殻のようにもろい防壁だったのだろう。村上春樹が『ダンス・ダンス・ダンス』において「人間は心底では殺しあうのが好きで、それから逃れるには別の世界に逃げるしかない」と羊男に語らせたように。

初期のSF『レダ』のヒロインもやはり摂食障害とLGBT、そして境界例(パーソナリティー障害)を思わせる、決して美しくないが魅力的なその女性は、最終的に別の世界へ逃避する。その先はある意味、母の胎内と同じであり、全能感への回帰だ。ここで話が振り出しに戻る。彼女は幼児期に母親、あるいはそれに代わる存在との幸せな関係、基本的信頼の構築(参照リンク)が果たせなかったのだ。それゆえに社会からの同調圧力、「美しく誰からも好かれ愛される存在でなければならない」に押しつぶされ、わがままに自由に振舞えず、自分を愛することができなければ、当然、他者を本当の意味で愛することもできない負のスパイラルに絡め取られていく。

ニーチェを指してだろうか? セックス・ピストルズ/ P.I.L.のジョン・ライドンが「俺達はみな精神病院で死ぬだろう」と吐き捨てたように、この世界自体が巨大な精神病院なのかもしれない。同様のことを芥川龍之介は晩年、「河童」で描き、また、「地上に上る梯子が欲しい」という意味の句を残している。彼の魂は既にして涅槃にあり、ついには地上の生活に適応できなかったのだ。

そういった時代と社会の圧倒的な力から逃れるために、冒頭に引用したことを実践するために、何が必要なのか。当たり前だが仲間である。決して閉じられていない、集団自決に、あるいは外の社会との全面戦争に向かわないだけのユーモアと客観性を含む、しかし独自なコミュニティー。

栗本薫は生前、特に初期作品ではほとんど呪詛のような響きを伝える。しかし彼女の死後2013年に発表された、息子のために作られた童話『いつかかえるになる日まで』は、日の目をみるはずではなかった作品ゆえに、愛する息子のためにと客観化されたがゆえに、彼女の最も美しい部分が結晶している。

人より成長の遅いおたまじゃくしは、兄弟や友達がみなカエルになって飛び出していくなか、一人ぼっちの恐怖にさらされる。しかし水槽の水を替えに来たママ(彼の世界では神に等しい存在)は告げる。



たまおくん ひとりになっちゃったね
でも それでいいのよ
だれにでも みんな それぞれの ときというものがあるの

そして それはひとつではないのよ
そのときが こないうちは
だれも むりをしては いけないの

(中略)

おかあさん
いつか ぼくも
りっぱな かえるに なれるのかしら
 
なれますとも
 

 
栗本薫『いつかかえるになる日まで』P54 スタンダードマガジン
 
 
  彼女と母親の間にどんな確執があったか知らない。今思えばだが、この作品が書かれた88年頃を境に、彼女の作品は先鋭さや輝きを失っていく。それはよいことだったと思っている。ひとがひとを愛することは、決してその優れた才能ゆえではない。過ちや欠点を受容される経験はえがたい、その大いなる“はたらき”こそ世界を安定させる。