ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』 -ボーダーラインと創造性

ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を読んだ。

ART-SCHOOLというロック・バンドは、特に初期、歌詞の題材を文学に求めていたが、「MISS WORLD」で歌われている村上春樹『蛍』(あるいは『ノルウェイの森』)と並んで、というかより直接的に「車輪の下」という曲がある。ライヴ定番曲でもある。だから気になっていたし、そもそも古典だ。



でも今さら読んだ。



後半、主人公が故郷に帰った後に回想する少年時代の様々なミステリアスな思い出、そして憧れの少女を描写する下りはとても美しくて、それが時を経てどう変わったか。これだけのためでも読む価値は十分ある。中盤での、ハンスとハイルナーの神学校寄宿舎での友情は、萩尾望都や吉田秋生、木原敏江の諸作品を思い出させるし、作者の心情を二人の青年に託す構造はそのまま『ノルウェイの森』の僕と永沢さんに引き継がれている(かもしれない)。後半描かれる冷酷な教師の態度はRadiohead「ビショップス・ローブス」の世界観だ。

前半は御託を並べているだけだから読み飛ばして一向に構わない。中盤以降に、今挙げたような、我々誰しも通り過ぎる、あるいは思春期に願っても得られなかった美しい何かが描かれている。

『シッダールタ』も面白かったけど、ヘッセのこれらの作品には古典的な境界例(ボーダーライン)の感性が色濃く表れている。今でいうパーソナリティー障害ではなく、むしろ統合失調型パーソナリティー(もしくは統合失調質パーソナリティー、自閉症スペクトラム)を思わせるのだ。

精神科医、町沢静夫は著書『ボーダーラインの心の病理』のなかで境界例として太宰治やヘルマン・ヘッセの名を挙げ、以下のように述べている。

“ 社会があまりにも安定し過ぎ、あるいはある種の官僚的システムや教育システムがあまりにも画一化された時、彼らの自己破壊的とも言える境界線を乗り越えていく力には、意外に生産的なものが含まれているかもしれないのである” (P98)

さらに町沢は、「そういった彼らの積極的な側面を評価すれば、意外にも彼らの自己破壊性は弱まっていく」と続けている。これはユング心理学におけるトリックスターの概念に非常に近い。『車輪の下』は社会制度や教育システムに疑問を投げかけるという観点で今なお有効性がある。言い換えれば普遍的なテーマを持つ作品だから読み継がれている。  

こういった点は栗本薫がSF小説『レダ』でより論旨を深める形で発展させている。坂本慎太郎がセカンド・ソロ・アルバム製作時に影響されたというフィリップ・K・ディックの作品を挙げるまでもなく、SF小説は社会全体の問題だけではなく、個人の思春期や心理発達上の課題、時に精神疾患とも親和性があるのだ。

脇道にそれた。また町沢は同著のなかで、太宰治をホールディングしていた(守っていた)のは井伏鱒二だと論じている。井伏を「とぼけた味というか、茫洋としたものを持っていて、一切の感受性を抑え、それでいて豊かな、どこか乾いたユーモアを持っている」と評している(また余談だが、これはナタリー創設メンバーが『ナタリーってこうなってたのか』収録の対談で、主宰の大山卓也を評した内容と似ている)。

“だからボーダーラインの人に接するには、その複雑な心理メカニズムに乗っからないというか、少々の敵意にも反応しないし、そうそう褒められても嬉しそうな顔もせずに、淡々としているというかね。向こうの感受性にピンピン応じていたら絶対駄目というのがあるんですね。そうすると完全にひっかき回されるんです。(中略)ある距離をもって、いささかとぼけた顔をしてついていったほうがいいようなんですね。でも最後は、危ない時はガサッと手を大きく出して救うというのがないと、また本当にやっちゃいますからね。”

そしてこうまとめる。太宰とつきあおうと思ったら

“よっぽど人間ができてないと無理だと思いますね。繊細さと鈍感さと大らかさと、怒る時は怒る強さなんていったら理想の人間になっちゃいますね。それを井伏鱒二が果たしていたのかもしれませんね。” (P174-175)

そして精神分析をする医者なんてものは、なるべくそういった理想に近づかないといけない。これはひょっとしたら善悪、栄華と孤独、全てを体験して乗り越えないと得られない境地なんじゃないか。



だいたいがブッダ(シッダールタ)だって、ジョン・レノンの若い頃と同じくらいはちゃめちゃな人生を送っている。王族に生まれながら妻子を捨てて、苦行を続けミイラになって死ぬ寸前に生のありがたみを知ったんだから! フロイトは自身の神経症ゆえに精神分析の体系を創出したんだろうし、その弟子、ユングも自身が精神病的な危機を体験したからこそ後世に残る業績を残したのかもしれない。

ここでやっと、ヘッセの話に戻る。彼はおそらく統合失調型パーソナリティーと今なら診断されうる人物だったと考えられる。神学校での挫折と自殺未遂といった10代の混乱の後、労働者として社会と関わったこと(これらの体験が『車輪の下』のモチーフとなっている)は彼のアイディンティティーの形成に大いに役立ったと想像される(P189)。後にさらなる困難に直面した際に、ヘッセはユングの弟子ラングによる精神分析を受けた。フロイトに比べてユング学派は無意識をポシティヴなエネルギーとして捉えており、そのことはヘッセの創作活動に良い影響を及ぼしたという(P182)。時代に残るアーティストは、自身の内面の問題を掘り下げ、時代精神にまで深め一般化する。

これは村上春樹でいえば、『ねじまき鳥クロニクル』において、主人公が自身と妻の間の問題を突き詰め、井戸(無意識)を掘っていき、時代を、この国の政治を支配しようとするダークパワーを現実に打ち滅ぼしてしまったことに例えられるかもしれない。