ひなたぼっこの中で孤独を共有する会

今から記す文章は1987年の精神神経学会誌よりの引用です。

ある地域、ある病院にかつて存在したデイケアのありようを示す論説です。私がこれを記すのは、こういった考え方が私に安堵をもたらすからであり、同時にある種のアートについて、理想の提示方法だと思ったからです。

振り返って、平凡、非凡に関わらず、いかに多くの似非ポップな表現が他者の居場所を侵食し破壊しようと振舞っているか。そういったことへのささやかなアンチテーゼとなりうると思うからです。



『ひなたぼっこの中で孤独を共有する会』。それは「非」対象化であり、互いの特異性を確認しあうことである。それは真の意味での「他者との交感」「世界との交感」である。 それは革命組織や70年代の学生運動のような「全く同じ思想の共有、深い一心同体の関係」とは趣を異にする。深い関係ではなく、浅く豊かな関係である。その関係の中では「私」はつねに「私」に返される。「あなたのことはあなたでやりなさい」という形での私(個人としての私)ではなく、「俺はあいつとはやはりちょっと違うんだな」と感じる私(特異な存在としての私)にいつも返される。それが相互の特異性、相互の孤独を確認する集まりである。


人と人との関係といえば、すぐに「仲良く親密に助け合い同じ目標に向けて団結」すべきだと皆考えがちだ。しかしこの集まりはそうではない。この会は会則も統率もなく相互扶助意識も薄い、相互関係は表面的で淡白、常に初対面のように浅い。したがって話される内容もてんでばらばらになる。それなのに全体の雰囲気はきわめてなごやかだ。一度その中に入りさえすれば実に居心地がよく、確かな連帯感と自己の存在感を味わうことができる。かれらは自分達が元いた共同体へ戻ろうとするのではなく、かといって新たな共同体を創ろうとするのでもなく、いわば「自らの所属する共同体を失ったひとたちの共同体」として、ただぼんやりと存在し続けている。

退院した人々はその中でのんびりとひなたぼっこをしながら日々を過ごしている。そういった生活のありようとはどんなものか。 具体的には、十数名の参加者が土曜日の午後に公民館に集まる。お茶を飲み、菓子を食べながら2時間ばかり一緒に時をすごす。 ただそれだけのことで特別にテーマがあるわけでも議論するわけでもない。とりとめもない話が、てんでばらばらに続くだけである。脈絡のある話をしているかと思えばとてつもない方向へ話が飛んだり、とっぴょうしもない話をもっともらしく話し合っていたりする。相手が聞いていようといまいとひたすら喋り続ける人がいるかと思えば、逆に相手が何を喋っていようと黙ってあいづちを打っている人がいたり、一つの話題を共有していたかと思うと、いつのまにかめいめいが勝手に喋っていたり。 しかし全体の雰囲気は和気あいあいとしてなごやかである。そんな話をひとつひとつ真剣にとりあっていると疲れるが、聞くともなしに聞いていると実に居心地よく、そのまま寝入ってしまうと誰かが毛布をかけてくれる。月一回のハイキングは、日曜10時に集合していっしょに出かけるが、それぞれがそれぞれの気分に浸って帰ってくる。 したがって計画はあってなきがごとしで、博物館に行こうと出かけても、その日の天気が良すぎると「喉がかわいた、ビールを飲もう」と公園の芝生でビールを飲んで、それだけで帰ってくる、というようなハイキングだ。



『ひなたぼっこの中で孤独を共有する会』は組織としての体裁をまったくなしていない。ただなんとなく一緒にいる、そしてお互い安定する、それだけだ。 かれらは「今、自分が喋っている。喋っているのが私だということに自体、確信が持てない」のである。そんな実存不安に脅えるかれらにとっては、働くとか社会の役に立つとかいう前に「明日も同じ地域に居続けられるか」が大問題である。そんな苦しさを背負いながら少しでも楽になる、安定する生き方を手探りで探している。それが『ひなたぼっこの中で孤独を共有する会』の存在理由である。



現代社会では「働くこと、社会の役に立つこと、生産性があること」に人間の価値を見出している。 労働、生産活動とは「対象化」である。それまでどこかに隠れていたものを目の前に引き出すことである。例えば山中のそれまで誰の目にも止まらなかった石を掘り出し、運びだして座敷の前にすえて庭石とすることだ。 人間に対する態度も生産活動(≒対象化)と同じように考えることができる。横にいる人間を自分の視野に捉え対象化し「○○にしてやろう」と考える。ある目標志向性をもってその人間に接する。その極端な例が革命組織や70年代の学生運動のような「全く同じ思想の共有、深い一心同体の関係」である。つまり自分の視野(≒革命思想)に捉え対象化する。

ここで考えなければならないことがあるそうやって対象化したとたん相手は均一な存在になってしまい、ひとりひとり異なるひととして捉えることができなくなってしまう。目標志向性を持って働きかける生産労働ではそのひとをありのままのそのひととして、あるいは世界をありのままの世界として捉えることができない。

ありのままのあいまいもことしたひとやせかいはうしわれてしまう。




『ひなたぼっこの中で孤独を共有する会』のひなたぼっことは非対象化であり非生産活動である。横にいるひとを、横にいるままに、そのひとを見るともなく見ながら、そのひとの話を聞くともなく聞きながら、あるいはそのひとの存在を感じるともなく感じながら、そのひとに対して何もしない、あるいは『何もしないことをする』。そこに生まれる他者との交感、世界との交感であり、『お互いわかりあえないということだけをわかりあう』ことである。 何もしないといっても、それは体を動かさずにじっとしているということではない。子どものように体を動かす、跳びはね、転がり、走り回ることによっても世界との交感、他者との交感は可能であろう。言葉や直接的な行動以外にこそ驚くほど豊かな情報がつまっているのだ。

『ひなたぼっこ』とは単なる『無為』ではない。それは明確な目的を持った極めて積極的な人間の活動でさえある。



精神神経誌1987年89巻6号第83回シンポジウム「精神医療改革への展望」P753より抜粋、改変